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  • 松尾曜子

ヒロハフウリンホオズキ

ナス科ホオズキ属



聞きなれない名前、ヒロハフウリンホウズキ。

でも意外と広く分布されていて、どこにあってもおかしくはないほど。

元々は熱帯アメリカ原産の植物。

ホオズキの種類だけど、その風船は繊維質な印象の私たちがよく知っている赤いホオズキとは違い、フウセンカズラのように柔らかく瑞々しい印象がある。

よく茎葉を見てみると、トマトのように脇芽が出てきて枝分かれし横に広かっている。

赤いホオズキは枝分かれせず、株は縦に伸びて行くのでその辺もパッと見た印象は随分違ったもの。


そしてネットで調べてみると、特徴とともに一緒に出てくる「駆除に困った外来の雑草」としてのヒロハフウリンホウズキ…。

ちょっと前に、牧野富太郎の本で出てきたワルナスビについて個人的に調べていたのでピンときた。

この植物がこの国に来た経緯は種子が輸入家畜飼料に入っていたのがきっかけで、糞として排泄されても種子が生きている強い植物。



駆除問題はさておき、まずは観察から得た特徴を見ていこうかと思う。

第一印象としては、フキとかセリのようにすーっと縦に繊維が見える茎や、葉に鋸歯はあるものの全体的に毛がなく風船もやわらかく丸みを感じる様子に水の要素を感じた。

脇芽が出てくる様子はトマトと同じだけど、毛が全くないのでやわらかい印象がある。

茎は、切ってみると、丸みの強い五角形になっている。

花は合弁花(花弁が一個にまとまっているもの。ツツジやアサガオなど)で5つのひだがあり、ガクも5つあって、脇芽が出てくるところの中心から1本伸びてきてクリーム色に茶色の模様が入った花を咲かせ、紫色の5本の雄しべと中心に1本の雌しべがある。

風船の様子を見てみると花が終わった後、ガクが膨らんでゆきそのまま風船になってくようだ。その中に子房が膨らんだトマトのような緑の実があり中に種子がたくさん入っている。





5という数字は、金星との関係が深い。

地球を中心として金星が描く軌道は、5弁の花弁を思わせるようなリズムを取っている。

金星はヴィーナスの星。ヴィーナスはボッティチェリのヴィーナス誕生の絵からもわかるように海の泡から生まれ、風の妖精に向かい入れられる。

水と風との関係が深く、夜空の中で明るく輝く金星は光についても影響を担っていると言われていている。

軽やかで、優雅な金星がこのヒロハフウリンホオズキの中にも見えてくる。

五角形の茎の断面や5枚のガクや花。風船を作り実と外界の間に空気を作るようなところも金星を思わせる。この風船は水辺に落ちても浮かび運んで行くようになっているとも考えられていて、その情景はまさに貝に乗って現れたヴィーナス誕生の絵のようである。


また、5という数字で思い浮かぶのは、東洋の五行説を思い出す。

西洋は四元素として火、風、水、土の4つのエレメントで自然界を表すのだけど、古代中国はエレメントを木、火、土、金、水と5つに分けている。

4という数字は、赤紫蘇コスモスでも言ったが、春夏秋冬や東西南北を担っており、人間が感じる場や時間を思わせる。

5は何かと言うと、人間自身の身体、体験、感覚を司る。

五感や、五体満足など5に関する身体の言葉はとても多く、人間そのものので、身体で感じ取れる感覚のこと。

だから、私は5の特徴が強い植物を見ると「感覚大事にね」と言われているように感じる。



ところで、私がこの観察ノートを始めたのは、今年の春分から。

世の中はコロナの緊急事態宣言の最中で、巣ごもりに徹していた頃の話。

私の住む場所は、田舎で元々ソーシャルディスタンスされていたような環境だから都心に比べたら窮屈な思いはしていないが、やっぱり自由が制限される中で家族が常にずっと家にいるときに、自分と向き合う時間を確保するために観察を始めたところがある。

そして、子どもの学校が再開される頃には一度この観察を辞めていたが、秋になってなんとなくまたやりたくなり再開した。自粛中はなかなかゆっくり観察できず簡単なメモのようになっていたのが心残りだったので、もう少ししっかり見てみようと思いブログという形にして見いくようにした。

そして、書いていいるうちに、不思議と自分の内面や周りのことと植物の形態がリンクしていることが多いことに気づいている。


つい先日、現代詩手帖の7月号を買った。特集は「コロナ禍のさなかに」。なぜ今更過去の雑誌を買うことになったのかは、発売された頃に買おうと思っていたのをうっかり忘れていただけのことなんだけど、あの頃より冷静になって読める今に買って良かったように思う。

中は、それぞれの自粛生活や、政府や世の中に感じること、アメリカの人種差別問題に触れるような内容も多く、そんな中で詩の言葉がポツポツと浮いているような印象だった。

それで、ついこの間までの自分の自粛生活も思い出され、植物日記の経緯も自然と振り返えさせられた。

この雑誌の佐々木幹郎さんの投稿の中に、田村隆一氏の『緑の思想』の詩から視覚認識について書かれていて、「なにかが正確にわかるということは、関連する事象がその分だけボケることを意味する」という養老孟司氏の言葉を使って話していた。

この話が、私の植物観察に通じるようで、ハッとした。私にとって植物観察は、植物にピントを合わせることで私自身の無意識がぼんやり浮かぶような、何もないと思っていたところにぼやけた視点があることがわかるというか、そんな感じなのだ。


今回のヒロハフウリンホオズキも、庭に知らぬ間にひょいと伸びていて、風船が可愛らしく何にも考えないまま観察を始めたが、厄介な雑草としての顔や、流通の中で海外から渡ってきた経緯など知るうちに、「コロナ禍のさなかに」とリンクして、色々考えさせられる。

とにかく、植物もコロナも観察してもしても求めている答えはそこにないと何となくわかっている。観察する中で意図しない視点がすぐそこにあることを認識したいだけなのかもしれない。

小さなヴィーナスは私の鈍感な感覚を刺激する。


 © 2018 草曜舎 souyousya 

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